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八木 繁
漆を語る |
八木さんの工房に入ると、奥様と息子さんが働いていた。みんなちゃんと自分の場所を持っている。三者三様の景色が、実に好もしい。むろん、八木さんの持ち場もあって、そこはやはり空気が少しちがうようだ。八木家三代目の当主の重みで、これが家業の匂いだな、と私は思う。
「息子はこの仕事に抵抗なく入った方やね。小さいころから、この仕事はいいよと言ってきたから。普通は、不景気な時代やさかいに、こんな仕事はやめた方がいい。サラリーマンや公務員の方がいいとなるけれど、うちは逆で、絶対、これをやれと。自分で好きな形をつくれるし、それを直接、お客さんに見てもらって、良い悪いの評価もしてもらえるし。」
父親に自信がなければ、息子がその跡を継ぐわけがない。自分自身はすんなりこの仕事に入ったわけじゃないと自嘲する八木さんだが、二代目から漆芸の楽しみはしっかり教えられてきたのだ。初代から棗の名手として知られる家伝の技の厳しさと喜びを。作家ではなく職人であることの誇りを。
「全部、一人でつくるから、それ以上はダメ。そして人の手が加わったものはダメ。品物を買って使ってもらうと、わかってもらえる。だから手抜きができないし、いいものをつくれば、じぶんで宣伝しなくても、品物が宣伝してくれるんです。漆器というのは、同じ木でも、仕事の仕方でその味がちがってくる。手抜きをして、あとどうなったやろかと心配するようなものをつくるぐらいなら、やめてしまえ、と。これでいいと思うまでやって、たまたま販売がうまくいかなかった場合はしょうがない。」
八木さんは、篠笛の名手でもある。演奏活動だけではなく、他の人に請われて笛の教室も開いている。数年前、私が最初に八木さんに会った日も、ある町での笛の練習場でのことだった。それから、私は自分のプロデュースするイベント・ステージに八木さんに登場してもらい、ひさしぶりに感動のシーンをつくれたのである。八木さんは、青春時代にギターを篠笛にかえて、毎週日曜日、金沢の師匠の元に八年間通った。当時、藤舎秀寿さんは七十歳。県内きっての名人で、八木さんたちは最後の弟子となった。
「いい先生につくと、笛だけ教えてもらうんじゃなくて、人間性というか、態度とか姿勢とかを教えてくれる。別に指が動かなくてもいい。笛の音色を聞かせ、その中に色っぽさがあったり、全体の音がいい感じになればいい、とか。それで、日本の笛の中には漆が塗ってあるんです。湿気が多いから、竹や木が腐る。そして口で吹く楽器だから、水が染み込んで、すぐダメになる。また、漆が塗ってあるのとないのとでは、音の響きがぜんぜんちがう。音の柔らかみというか、空気のすべりがね。漆は保護剤だから、いいものは何百年でももつ。」
漆芸と音楽。あのイベントの日、八木さんと楽屋で打ち合わせをした時、仲間の一人が、うらやましいね、といった言葉を想い出した。まさに、これが本物の職人の世界、感性の豊かさを感じる。漆の師、笛の師に学んだ八木さんの作品が、おもしろいのも当然のことだろう。
「漆器は、昔からのキチッとした技術を教えてもらって修行した者でないとダメなんです。とくに下地の技術がないと。それに遊び心やね。自分は笛を吹いたり、いろんな人とつきあいをして、それが遊び感覚になって、新しいものをやってみようかという気持ちになる。今は売れないものであっても、いい形というものが出てきたりして。漆の色も、赤・黒・溜の三種類の他に、オレンジ・グリーン・イエローなどを使ってみたりしている。」
山中は、轆轤の技術が日本一、挽き物にかけては、どの産地にも敗けないという。しかし、その栄光も崩れつつあるのは認めなければならない。安直な大量生産の結果である。地場産業としての山中塗は転換期を迎えて、もう一度、一人ひとりの職人芸からの再生のキッカケをみつけようとしているのだ。工場から工房へ、八木さんたちは手仕事の本道へ還ってゆくのである。
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(『動橋ー加賀棒茶物語』第三十三号・二〇〇一年秋季掲載 文章:出島二郎) |
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